托鉢
半月前のこと。寒風が吹きすさぶ中、一人の僧が、街角に凛と直立していた。左手には応量器、右手には鈴がついた長い杖を掴んでいる。
応量器に銀貨を一枚入れた。「風邪をひかないようにね」と一言添えて。驚いたことに、私を一瞥し、低い落ち着いた声で「ありがとう」と返礼があった。托鉢中はずっと読経しているものと思っていたが、言葉を発することもあるのかと驚きもした。でも、正直嬉しかった。
帰宅後、托鉢について調べてみた。今は贋物の僧侶が托鉢していることもあるのだという。もしかして、もしかすると…。「ありがとう」と言うなんて、やはりおかしいのだろうか。喜んでしまったことが恥ずかしくなった。
今日、また違う街の駅前で、托鉢僧を見かけた。半月前のことがあるから、今度は喜捨せずに、しばらく様子を窺っていた。バッグから何やら取り出し、読んではしまう。視線をキョロキョロさまよわせる。目の前に立ち止まった人の動向に注目する。読経はしていない。落ち着きが全くないのだ。怪しむ目で見ているからか、その僧が贋物に見えて仕方がない。
20mほどのところに交番があるので、托鉢について聞いてみることにした。本来なら、交番で聞くようなことではないのだが…。
親切に耳を傾けて私の話を聞いてくれた巡査。上司にも話を伝えてくれ、「もし、贋物の僧侶なら、詐欺行為になります。ちょっと様子を見に行ってみます」と言ってくれた。本物の僧侶だったら疑って申し訳ないが、贋物なら、やはり善意を踏みにじられる人が一人でも出ないで済むのなら…と思うで、相談してよかったと満足して、帰路についた。
僧の格好をしていても、信用のできない時世になってしまったことは嘆かわしいし、安易に様々な募金ができなくなってしまっている事実に虚しさを感じる。
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