悩みが持ち上がり、がんじがらめに。気づけば、一週間もブログの更新をしていない。いつもは書きたいことがあふれ、投稿が追いつかないことの方が多いのだが、今は綴りたい心境になれない。
今日は思い切って、新規投稿のタブをクリックしてみた。マイペースで更新していってみようと思う。そして、読んでもらう記事ではなく、記録として書き溜めておこうと思うことを、気楽に記してみることにした。
人間は一人では生きていけない。全てのものを自給自足はできないし、生まれ落ちた瞬間から、自分のことを全て世話できる人もいない。最小単位である家族も、職場の人たちも、友人・知人たちも、生きて行く上で必要な家や食物等を作ってくれる人々も、道ですれ違う人々でさえも、縁があって知り合い、すれ違っているのだ。
落ち込んでいる最中、見ず知らずの人とのふれあいで、「嬉しいな」と感じることがあった。人間は誰もがコミュニケーションを取り合って生きて行く、社会的動物であることを実感した出来事だった。本来、人(子ども)はそういうことの積み重ねで成長(大人になる)していくものなのかもしれない。
スーパーでレジに並んでいた時のこと。すぐ後ろに並んでいた女性が、5kgのお米を両手からぶら下げていた。「重いでしょうから、レジ、お先にどうぞ」と、口から言葉が出た。その女性は、お礼を言って、私に笑顔を寄越した。レジが済んだ後も、何回もお礼を言っていた。
遠出した帰路、混雑している電車内。着席していた私の前に同い年くらいの女性が立っていた。駅に停車した際、空席を探しているような素振りを見せたが、空席が見つからないのか、依然立ったまま。私の方が通路を挟んで隣の席が空いたのに気づいたので、その女性に「空いていますよ」と声をかけた。彼女は、ニッコリ笑って「ありがとうございます」と会釈し、着席した。
通院している総合病院の休憩所で昼食を食べていた時のこと。「あ~、疲れた」とため息とともに難儀そうな声を発して、近くの席に着席した一人の老女がいた。朝から長い待ち時間の末、やっと診察が終わったといった表情に、経験のある私も同情。目が合い、どちらかともなく微笑む。老女は、私に向かって、再度「疲れちゃった」と苦笑い。言葉にすることで、疲れを癒やそうとしているかのよう。私も彼女に同意するかのように、笑顔で頷き返した。診察前の緊張が幾分ほぐれた感じがした。
三人の女性とは面識もないし、再会する確率も低い。見ず知らずの他人と言ってしまえばそれまでの関係なのだが、一瞬でもお互いの人生(というほどでもないが…)が、重なった瞬間、私の心にフワッと温かい風が吹き抜けていったのを、軽くやり過ごしてしまっていいのだろうかと考えた。落ち込んでいる時に、見ず知らずの人からの笑顔やお礼の言葉で、こんなにも「嬉しい」という気持ちの良い感情が膨れ上がってきたことに、忘れかけていた何かも一緒に湧き上がってきた。
20代のころ、駅のホームのベンチに腰かけ電車を待っていた時、目の前に停止した電車内から親くらいの年齢の女性が座っているベンチの隣に倒れこんで来たことがあった。あまりの勢いに驚き、様子を窺っていると、具合が悪くなってベンチに倒れこんできたのだとわかった。近くにあった自動販売機で冷たいお茶を買い、女性に渡した。お礼の言葉とともに、私の行為を褒めてくれた。「私にもあなたぐらいの子どもがいるの。今日のことは、話して聞かせるわ」と言っていた。スッキリしたいい気分であった。
そう言えば、初対面の人にお茶をごちそうしたことは他にもある。帰国後、成田空港駅で冷たいドリンクを飲みながら電車待ちをしていたところ、並びのベンチに初老の外国人夫婦が座った。たった今日本に到着したといった感じの夫婦で、暑いのかしきりに額の汗を拭っていた。自分だけ喉を潤しているのが申し訳ない気持ちになったので、冷たいお茶を二本買い、「Japanese Tea」と言って、差し出した。英語は苦手なので、ジェスチャーにも頼ってしまったが、優しい笑顔で受け取ってくれた。現地のコインがない時、買いたいものが買えない辛さ、私も味わったことがあるから、そんな行動をとったのかもしれない。手を振って別れた後、さわやかな気分になった。
こういった感覚を忘れていた。人間、余裕がなくなると、自分だけのことで精一杯になる。他人の置かれている立場まで、なかなか察してあげることができない。最近の私がそうだったのかもしれない。前述の三人の女性との出来事で、そのことを思い出したのだ。何気に発した言葉が、動作が、仕草が、爽快な気持ちとなって自分自身に返って来るということを。
運気も低迷がちで、最近いいことがないと感じていたとしても、相手の立場になって考え行動するだけで、「嬉しい」という感情、「ホッとした」という心情になれるものなのだと改めて気づかされた。それは、人間がコミュニケーションを必要とする動物であり、多くの人々と支え合って生きているからに他ならない。素敵なコミュニケーションができた時、温かなエネルギーが体の中に芽生えるのだろうか。どんなに多忙な日々を送っていても、自分を見失いかけていても、忘れたくない思いやりの心だと思った。
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